« 夢と希望に接する仕事 | メイン | 文章による表現 »

August 21, 2004

中学生とインターネットについて

佐世保の事件以降、若くしてインターネットを使うこと自体を
いろいろ言われていることが多いようだが、
インターネットの悪影響ばかり 公にされるのはなんとも不甲斐ないので
ここで小中学生がインターネットに触れることについて、
ポジティブに捉えて書いてみたいと思っている.


かく言う私は、確か13か14歳のときにインターネットを触ったのが初めてだった.
コンピュータ自体は5歳のくらいから、父親のCADソフトを使って「お絵かき」していたものだが.

結論として言えば、「あの頃からインターネットを使っていたからこそ得たことが多い.」
いやむしろ、あったからこそ今成り立っていることが多すぎる.
そのくらい よい影響を受け続けてきたと思う.

私の中学校は、ただの公立中学だった.
だが、その時「全国インターネット100校プロジェクト」というものに参入している学校であったために
学校は、コンピュータールームを開放し、UNIXサーバさえもあった.
(印象に残っているのは、情報担当の先生が校長に「あのー、パソコン増やしたいんですけど」
「いいよ、何台?」「win95を50台」「はい(ポンとはんこを押す)」ってやり取り.決断早すぎ.
あと、毎週のように間違ってサーバの電源切っちゃう生徒が居たなぁ...)
国際教育と題した選択授業では、地球の反対側の国と
朝早くがんばってビデオ会議をしている、なんて生徒もいた.
国際関係についてのクラブの生徒とコンピュータ部と英語の教員が一丸となって取り組んでいた.

ただ、私が個人のパソコンを手に入れたのは、そのためではなく
その時熱中していたことと部活動に大きな理由がある.
(何度も言うようだが)私は小学校後半から「スポーツの科学・データ」というものに熱中し、
中学1年か2年の誕生日(?)を機に、サッカーのデータをまとめたいために、パソコンを購入した.
小学校のときから貯め続けた貯金で半額、両親に半額出してもらって買ったのが始まりだ.
エクセル(その当時はその簡易版の「Works」というソフトだったが)で、
パスミスの時間帯別グラフを作ることからはじめていた.


でもそれよりももっとたくさんのスポーツ科学についての情報が知りたくて
インターネットに繋ぎたくてしょうがなかった.すぐに繋いだのだけど.

その当時、96年か97年だったのでまだまだウェブページも少なく、
たまたま辿り着いたのが、同い年の埼玉の女の子が開くチャットページだった.
そこには全国から同い年ぐらいの子(とそれを取り巻くオタク・・・)が集まっており、
毎日夜遅くまで、、、いや 夜通し話し込むことも結構多かった.

インターネット黎明期なだけに、「ネチケット」だとかなんとか
大人も巻き込んで荒れることもしばしばあった.「ネカマ」もいたし「あらし」も「ネットアイドル」も居た.

この時にできた友達(後輩)は、今でも連絡を取り合える仲である.
中学や高校での勉強の教え合い(ネット上で)、大学受験の相談にも乗っていた(直接会って).
今振り返っても、今では考えられないほどの
いや、今からでも羨めるほど今後たくさんの人が目指したいと思うほどの
信頼関係すら生まれていた時期であり、場所だった.

しかし、それもその「一時点」の運命だったのかもしれない.
その後、インターネット利用者が増えるにつれ、その構造は壊れていった.
目を放した隙に荒れる、ナンパ目的の20代が現れる・・・
明らかに中学生前後の子供がターゲットのチャットに、それを(別の)目的とした大人たちが取り囲んだ.
ICQが流行りはじめた時期でもあり、「陰口」行為が高まっていった.
友情(恋愛感情も?)ができる一方、何度も何度も 荒れや衝突を繰り返していた.

耐えられなかったのは、あの信頼関係を知っている人間達だった.
私たちは密かに、交流を続けるしかなくなってきた.
数年後、そこで知り合った後輩との話で出てきたのは
「なんだか、信じられない人たちばっかりになっちゃったね、怖いね」
だった.


話を元に戻そう.

そんな私に転機が訪れたのは、97年の夏前のことだったと思う.
だが、その97年の夏、私の町 徳島市では「全国中学総体(高校で言えばインターハイ)」が開かれ、
我が徳島中学校はその事務局が置かれていた.
地元のNTTが、中学の情報担当に持ちかけたのだろうが、
その総体を全国初のインターネット広報しよう と言うことになった.
その時呼びかけられたのが 私を含む数人.結局最後まで残ったのは私ともう一人の友達だったが.

私の夏休みは、それ一色だった.
夏休みの始まる前から、NTTの人との講習を受けたりして HTMLを覚えて行った.
朝7時に家を出て取材に行き、夜7時に家に戻り、朝5時までページを作る、
なんてバカなこともしていた.
いい機会だと思い、その広報ページでは 私なりの特集ページを作っていた.
スポーツを科学的に見たり、特別インタビューをするという...

今話すとみんなびっくりするが、私とその友達は 中学校にノートパソコンを持って行っていた.
その当時の私のPCは、東芝リブレット50→VAIOのPCG-733.

その大会も終わる頃、私は 自分のページを作りたい という気持ちになっていた.
いくらその当時、私の興味のあるスポーツ科学のページを探しても、
あったのは英語で書かれた東大のページだけ.
自分の勉強を溜めていくためにも、ウェブを作ろうと思ったのだった.

その当時からスポーツ科学なんてものに興味を持つ 変わり様と
NTTから受けた講習のおかげか、ウェブを作ろうとしてまず始めたのが、
本屋に行って ネット関連の雑誌を漁り読むことだった.
その時のあの業界の 流行語みたいなもの(と私が感じていた)は、
「アクセス向上」
するウェブページの作り方 だった.

私が一番気をつけたのが
・何もコンテンツのないウェブは作らない
・検索に引っかかりやすい名前をつける
この2つだ.

前者のために2ヶ月ほど、サーバにあげる前にコンテンツを作り続けた.
後者のために「あ」から始まるページの名前を考えた.

1997年11月17日
私のページを公開.


それからは、よくいろんなところで話をさせてもらっているが
プロスポーツ選手との出会いがあり、
サッカーチームでのデータ分析のチャンスももらい、
学会発表も誘われ、
たくさんの悩みを抱えるスポーツをする側と、
違う悩みを抱えたままのスポーツを支える側に出会った.
この数年の私の出したアウトプットは、この時無しに語れないことは、周知の事実である.


確かに、インターネットは私に可能性を与えてくれた.
確かに、地方にいることの不利をいくらか解消させてくれた.
そして、私が始めた当時、
確かに、インターネットが「怖いもの」では無かったはずだった.


大人は、わからないものは蓋をしようとする.
使いたいときだけ利用して、子供には危ないから と言って、時を待つ.

使いたいときだけ利用して というのは、私が自分のウェブをもってから感じたことだ.
爆発的にネット人口の増えた98年以降、私のページに来る人間が
「答えだけを簡単に得るため」にネットを利用する人が大半になった.

たくさんのスポーツの悩みを抱えた人たちが集まる私のページには、
たくさんの相談や質問が1日何通も送られてきていた.
丁寧に さまざまな資料を紹介しながら返事を送っても、
それらにまた返事が返ってくることは、100通に1回くらいだった.
私の「E-mailに対する常識」はその時に変わってしまった.

返事は出さなくてもいい

そう思うようになってしまった.返ってこないのだもの.
ウェブを管理しているのが、中学・高校生である私だとも知らずに
20~30歳を超える人たちが、「自分の進路」をも 相談してくるからびっくりする.


しかし、話を戻すとしても
子供のインターネットが危ない なんて言うくらいなら、
もっと本気で大人が使ってみればいいじゃないか、と私は思う.
インターネットを危険なものにしたのは、子供のせいではない.
中途半端に 「危険なもの」に蓋をして、そうでないものを野放しにする習性こそが
危なくも無いものさえ危なくしたように思う.

私が中学生のとき、荒れに荒れるチャットページを
静止し、改善しようとしていたのは まぎれもなく中学生であった私たちであり、
それを荒らしていたのが20代以上の人たちだったのだ.

都合良く使う「要領」を知り得ない「子供」だから 引き金になってしまうのであり、
「要領が良くなるまで使うな」なんて まったく論理に欠けた話だと思う.
要領を知らない子供でも 使うことが可能なくらいに大人が手をかけるべきだ、と思う.

投稿者 Rie KAWANO : 03:41 PM | コメント (0) | トラックバック (0)
カテゴリー + +

Trackback Pings

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kawanorie.info/info/mt-tb.cgi/83

コメント

コメントしてください




保存しますか?

(書式を変更するような一部のHTMLタグを使うことができます)